1904年秋、那智での隠花植物採集を終了した熊楠は、本宮から熊野古道を経て田辺にたどり着き、定住することになる。田辺に家を借りていた熊楠は、毎日のように近郊の山野を歩き、植物調査に余念がなかった。4年ほどの調査で50種あまりの粘菌を見出し、菌、藻類、地衣類にしても田辺付近が発見の多い地であると喜んだ。これら新種、珍品の現れる場所は、糸田にある猿神社の巨大なタブノキ、神楽神社の溜池、龍神山の境内といったような、うっそうと茂った社寺林の中であった。
1906年には、親友の喜多幅武三郎の勧めで結婚もし、長男も生まれた。ようやくに得た安らぎかと思われた矢先、降ってわいた受難は、時の政府が推進した神社合祀だった。1町村1社を標準とし、整理統合された数多くの神社跡は、その神社林が払い下げられ伐採されていく。熊楠の主たる研究対象は、この神社の森に保護された微小な生物であり、神社を単位とした共同体の風習や伝承である。それが一朝にして破壊の危機に立たされた。
猿神社のタブノキも伐られ、その木の窪みから発見した、美しい緑の光を放つ新種の変形菌は、もはや見ることはできない。森がはぐくんできた数千万年の生物が、合祀令によって一朝に消え失せる。産土神を遠くの神社に合祀され、参詣の不便さをなげく村民の声を聞くにつけ、また、合祀後の払い下げを見込んで巨樹の多い神社を合祀の対象に選ぶ神官や郡長らの所行を見るにつけ、熊楠は怒りを爆発させた。それまではかかわりを持たなかった地方の新聞に、連日のように神社合併の不条理をあばく投書を続け、一方、代議士中村啓次郎を通して衆議院での質問、柳田國男らに中央での働きかけを期待する書簡を書きつづった。
熊楠は、一切の研究を放棄して反対運動にのめりこんだ。合祀推進の官吏が来ていると知って、その会場に押しかけ家宅侵入の容疑で拘留されたこともある。また、新聞投稿の記事が風俗壊乱であるとされ、罰金を課せられもした。「仏説に、樹を植え、木を保存するを一つの功徳とす。小生は幼少より学仏の徒なれば、愚者の一徳として発起、且、随喜し従事する所ろなり」―熊楠の所信である。妻の松枝は神官の娘で、もっともつらい立場にあった。泣いていさめたことが、反対の鉾先をにぶらせたとして熊楠の怒りを買い「妻を斬るとて大騒ぎせし」という事態もあった。1909~10年頃は、熊楠にとって阿修羅の時代だった。1913年、父祖の産土神、大山神社(現日高川町)も合祀の憂き目にあった。