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在米時代(1887年~1892年)

 大学予備門を退学した熊楠は、進化論など西洋の最新の科学思想を学ぶために渡米を考えるようになっていった。かねて胸に秘めていた北米のカーチスの菌類コレクション6,000点を上回る一大収集をなしとげようという意図もあった。和歌山で開かれた送別会の席上、時代はいまや欧米と日本との競争に入った。欧米の実情を知ることが急務だと、一場の演説をぶっている。1886年12月、熊楠20歳の門出である。

渡米にあたって友人に送った写真(当館蔵)

 和歌山を発つ時、「父が涙出るをこらえる体、母が覚えず声を放ちしさま兄、姉、妹と弟がいん然黙りうつむいた様子」は後年に至っても熊楠の脳裏に焼きついている。父母妹とはこれが今生の別れとなった。

 後に不和となる弟常楠からの書簡には、学資金の増額を要求する熊楠と、それを拒む父と長兄との間をとりなして苦心するようすがうかがわれ、また、長兄とそりの合わない父は、熊楠か常楠と共同して酒造業を始めたいと希望していたが、常楠が熊楠の学業の成就を願って、自ら父を助け、熊楠への送金を引き受ける役に回ったことも読みとれる。  

 アメリカに着いた熊楠はまず、サンフランシスコでパシフィック・ビジネス・カレッジという商業学校に入学している。半年間この商業学校に通った後、ミシガン州に移動し、今度はイーストランシングにある州立農学校(現ミシガン州立大学)に入学。しかし、同じミシガン州の学問都市アナーバーに惹かれ、アメリカ人学生との衝突もあって州立農学校を退学し、以後は読書と植物採集を中心にアナーバーでの生活を続けた。  

 全米最大規模のミシガン大学を有するアナーバーは、当時から古書店が多く建ち並び、また博物館などの文化施設も充実したところであった。熊楠はこの環境の中で、西洋思想と近代科学の方法論を独学で学んでいった。また、5月になると一斉に草花が咲き誇るヒューロン川周辺で、さまざまな種類の植物採集をおこなっている。

 それとともに、熊楠は他の多くの日本人留学生仲間たちと酒を酌み交わし、親交を深めてもいた。『珍事評論』はこの頃の熊楠が留学生仲間に回覧した手書きの戯文である。しかし、飲酒をめぐる事件から日本人留学生のグループ内に対立が起こり、熊楠は植物採集のために単身、フロリダ、キューバに赴くことになる。

 熊楠がこうした南部の地を訪れたのは、シカゴの弁護士ウィリアム・カルキンスとの文通の中で、これらの地が隠花植物の宝庫であることを教えられたからでもあった。実際、熊楠はフロリダでは中国人の食料品店主江聖聡の家に下宿し、またキューバでは曲馬団の人たちと交流しながら、隠花植物の採集を続けた。その結果、ギアレクタ・クバーナという地衣類を発見し、これはカルキンスの手からオランダの植物学者ニランデルに送られて新種と認められることになった。

 北米、フロリダ、キューバという放浪を経験した熊楠が、次に目指したのは大英帝国の首都ロンドンであった。フロリダに戻った熊楠は、1892年にニューヨークを経由して大西洋を渡ることになる。

熊楠と江聖聡(当館蔵)
渡英を控えての記念撮影(1892年6月19日)

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