熊楠の父方の家系(向畑家)は、現在の和歌山県日高郡入野(日高川町)で代々庄屋をつとめていたという。父弥兵衛(後に弥右衛門と改名)は、その庄屋の二男に生まれ、13歳の時、近くの御坊で丁稚奉公をつとめた後、和歌山に出て清水という商家の番頭になり、雑賀屋(南方家)に見込まれて入り婿となった。老母と一人娘、その娘は前夫との間にできた女の子を抱えての再婚だった。しかし弥兵衛との間に2人の男子ができた後、義母も妻も死去。女子1人、男子2人を残された弥兵衛は、近所の茶碗屋で時々見かける女性を後妻に迎えた。
これが熊楠の母となるすみである。ほどなく兄藤吉、続いて姉くま、そして1867年に熊楠が生まれる。熊楠が物心つく頃には先妻の娘は家を出て行方知れず、異腹の兄2人は早世していた。雑賀屋はもともと豪商だったが、弥兵衛が婿入りした頃には家産が傾き、それを立て直すのに弥兵衛は必死だった。熊楠4歳の時、弟常楠が生まれる。
父は鍋屋を営み、鍋釜を包むのに反古紙を山と積んでいた。熊楠は、反古に書かれた絵や文字を貪り読みつつ成長する。岩井屋という酒屋の息子津村多賀三郎から『和漢三才図会』を借り、数年がかりで105巻を写し取ることもした。読み、写し、記憶する、これが少年熊楠の日常だった。いまに残る少年時代の写本には『本草網目』、『大和本草』、『全躰新論図』、それにある日の新聞をまるごと写し取った『和歌山新聞紙摘』がある。筆写魔ともいうおそるべきエネルギーの感じられる数々である。
12歳で和歌山中学に入学してからは、熊楠は鳥山啓の薫陶を受けて、博物学の才能を伸ばしていった。特に、13歳の時に書き上げた『動物学』は「英国諸書を参校し漢書倭書を比て」、つまり英語の本を参考にして漢文や日本文の本と見比べながら作った自作の教科書である。序文には、「宇宙間物体森羅万象にして・・・実に涯限あらざるなり」とあり、博物学に志した少年熊楠の気概を示している。
熊楠の熊の生いたちで、伝説的に語られるのは学校の授業に出ず、植物採集に山にばかり入っていたので「てんぎゃん(天狗さん)」と呼ばれた、ということである。しかし、中学時代(1883年)の日記を見るかぎり、そう欠席が多いとは思えない。これはやはり熊楠自身が語るように「日本人に例少きほど鼻高かりしゆえ」の呼び名らしい。熊楠はこの天狗のニックネームを好んだらしく、写本の表紙によく天狗の絵を描き、また文章にも「天狗言」と署名するなどしている。