1904(明治37)年10月から田辺に定住後、熊楠は戸外での植物採集や調査、執筆、そして1909(明治42)年からは神社合祀の反対運動に取り組むが、家にあっては筆録を怠らず、「田辺抜書」と題する筆記帳にたえず毛筆で筆写を続けており、1911(明治44)年から田辺の法輪寺の「大蔵経」を借用して通覧し、その中から彼の学門に必要と思われる部分の索引を作り始め、それが1913(大正2)年に終わると、つぎには「アラビアン・ナイト」の索引作りを始めるといった具合である。「田辺抜書」は和紙の罫紙の一行に、二行ずつ米粒大の細字で書かれたもので、晩年まで続けられ、35字詰20行40頁のノートが61冊に上る。
(全61冊のうち2冊(1巻、61巻)は南方熊楠記念館所蔵)
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