熊楠は、『東京人類学会雑誌』(1911年2月刊行)に、「山の神オコゼ魚を好むということ」という論文を発表、それを読んで感動した柳田から、翌3月19日に手紙が届いた。
辞を低くして「山男」に関する熊野の伝承の提供を請うものだった。以後頻繁な書簡の往復を重ねる。そのうち熊楠から「欧米各国みなフォークロア・ソサエティーあり、わが国にも設立ありたきものなり」と呼びかけ、柳田がそれに応えて、草創期の日本民俗学は大きな一歩を踏み出した。
その後、様々な考え方の相違、『郷土研究』の編集方法、「わいせつ」の取り扱い方の相違などから絶縁する。しかし、熊楠の没後、口をきわめて熊楠を賞賛し、最初の全集の計画を推進したのは柳田であった。
このほか、熊楠の神社合祀反対運動に賛同した柳田は、熊楠が松村任三東京大学教授へ宛てた書簡2通を『南方二書』と題して印刷し、役人や知人に配布するなど熊楠の運動を助けた。
柳田から届いた70通以上の来簡は、南方熊楠顕彰館で大切に保管されている。