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東京修学時代(1883年~1886年)

 1883年、上京した熊楠は、神田の共立学校(現在の開成高等学校)に入学した。そこで英語を教えていた高橋是清は南方をナンポウと呼んで生徒を笑わせ、ランボウ君とも言うのには閉口した、と後年の回想にある。

 1年後、大学予備門(現在の東京大学教養学部)に入学してからは、「授業など心にとめず、ひたすら上野図書館に通い、思うままに和漢洋の書物を読みたり」という生活だった。和歌山で友人宅の本を興にまかせて借り歩いたのとは違い、ここには天下の書が手に届くところにあり、本好きの熊楠は胸を躍らせた。当時、図書館などで筆写したノートは、学校の課外に書きつける意味から「課余随筆」と名付けられ、この名での筆写は後の渡米後も続く。

 一方、当時日本に進化論をもたらしたアメリカの生物学者E・S・モースの講義録『動物進化論』を購入している。モースの発見した大森貝塚に出かけて獣骨や土器を拾い、またモースの調査拠点であった江ノ島で貝類や甲殻類を集めたことが日記や残された資料からわかる。また、朝鮮で起きた甲午事変における日本の関与に関心を持って報道を追っていたことや、世界を舞台にした政治小説である東海散士『佳人之奇遇』に心を躍らせるという面もあった。

 熊楠の下宿は神田錦町にあり、和歌山出身の学生がたむろしていたようで、早朝から湯島の湯屋へいって珍芸を披露したり、万世橋近くの白梅亭という寄席に通って興じたりしたようだ。共立学校や予備門の同級生、秋山真之や正岡子規なども寄席で唄われる奥州仙台節を夢中になって稽古していたという。熊楠も「よしこの節」を自分より上手に唄うものはいないと自負している。

 こうして正規の授業に身を入れなかったむくいからか、熊楠は中間試験で落第が決まり、「疾を脳漿に感じて」予備門を1886年に退学、故郷和歌山に帰った。

 

明治18年3月/予備門成績表(当館蔵)

 

18頁に塩原金之助(夏目漱石)、19頁中ほどに南方熊楠、不合格者中に正岡
常規(子規)の名が見える。熊楠はこの年の12月の試験で不合格となった。

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