上屋敷周辺

旧称丸の内
田辺城の堀は埋められたが、今も水門が残り、
ところどころに石垣も残る

田辺新地

 熊楠の飲酒にまつわるエピソードはたくさんありますが、長女文枝によると、熊楠は家では一切酒を飲まなかったといいます。飲むときは、三,四人の子分をひきつれて新地に行き、特別芸達者な芸者を選んで派手に飲みました。
 現在の田辺新地は田辺城(別名錦水城)の北側の内堀があった周辺にあります。
 1830年頃には会津橋東詰、現在の片町金毘羅社付近の中州に、庄司多太夫の開いた庄司新地がありましたが、1889(明治22)年の水害で流されました。また、福路町、本町、中屋敷、上屋敷など田辺町内各所にに丸よし、真安、藤の家、三池屋、壺天斉、花月といった料亭がありました。このほか、五明楼、京八、ぬし惣の旅館が芸妓を抱えていました。
 1912(明治末)年から散在する料亭を一ヶ所に集めよという声が起こり、現在の田辺新地が1917~1919(大正6~8)年頃に形成されました。

 このころの熊楠の日記には、

大正6年3月4日
 錦水座の帰途、新遊郭地見る。(松枝ら)
大正6年10月7日
 (小倉屋へ行き)ついでに松枝ら遊郭を見る。淋しかりし様子。
大正8年6月9日
 錦城館にゆく途上、はじめて遊郭地見る。

とあります。
 そんな熊楠ですが、文枝によると1929(昭和4)年の御進講の際には酒をやめていたといいます。1937(昭和12)年の書簡には、「14年来全たく酒を廃止致居り候」と記していますので、大正年間にはやめていたようです。


田辺城水門
 1600(慶長5)年、甲斐から浅野幸長が紀伊に入国し、口熊野の要地に重臣の浅野左衛門佐が配され、上野山城に入りました。1603(慶長8)年江川の州崎に城を築きましたが、1605(慶長10)年の暴風雨の波浪に破壊され、翌年に対岸の湊村の川口に築城し移るとともに、あらたに城下の町割を行ないました。田辺城はこの時に形づくられ、その城下町は今日の田辺市街地のもととなりました。1619(元和5)年、浅野氏が安芸に転封し、代わって徳川頼宣が入国し、御三家、紀州徳川領が成立しました。田辺には付家老、安藤帯刀直次が3万8千余石を与えられ、支藩的処遇を以て田辺領主となりました。以来明治維新まで替わることなく、明治に入って独立して田辺藩となりました。この城は、一国一城制のため、浅野氏が去る際、破壊して転封したといわれ、安藤氏が修築しましたが、公的には館と称しました。
 家老安藤氏は筆頭家老として代々和歌山に常駐し、田辺は直次の従弟・安藤小兵衛家が留守居役として代々城代家老をつとめました。
1870(明治3)年、田辺城は廃城となり、早くに姿を消してしまいましたが、僅かに水門と、それに続く石垣が面影を遺しています。
 田辺城跡には熊楠の当時、錦城館が建っていました。熊楠が松枝と結婚式を挙げたのはこの錦城館です。また、1913(大正2)年には柳田國男が来田し、宿泊しました。熊楠は、訪ねてきた柳田に会わず、後に柳田が宿泊していた錦城館を訪ね、ここで初めて顔を合わせました。

田辺城水門

錦城館の広告『牟婁新報』


〇寄り道

八坂神社(弁慶の腰掛石)
 元藩士巨海家のあったところで、その邸内に祀られていたのが、いつしか一般人も祀られるようになったともいわれます。境内には弁慶が少年時代に座ったといわれる弁慶の腰掛石があります。


かまぼこ通り
 かまぼこ通りには、道の両側に田辺名物の南蛮焼・牛蒡巻を製造・販売する蒲鉾屋さんが数軒立ち並んでいます。


田辺第一小学校
 熊楠の子供たちが通っていた小学校。
 つくばの国立科学博物館植物研究部にはこの小学校で採集した粘菌(変形菌)も収められています。
 当時は単に田辺小学校でしたが、1904(大正13)年に湊村、西ノ谷村が合併した際に田辺第一小学校(田辺第一尋常高等小学校)と改称。

 


田辺城水門跡