帰国から那智へ
生活費の困窮から、ロンドンでの独習もこれまでと見切りをつけた熊楠は、おびただしい植物標本を木箱につめて帰国した。くたびれた洋服に、懐中無一文で船を下りた兄に、常楠は、これが在外13年余の誇り高い帰朝者の姿なのかと失望をかくさなかった。帰国後の兄をどう処遇するか、常楠には頭の痛い問題であった。
その頃、常楠が営む南方酒造(現世界一統)は、勝浦に支店を開き酒の直販をしていた。熊楠にその支店のお目付け役として行ってもらえば、妻の手前、生活費支給の名目も立ち、兄もまた温暖多雨の熊野の植物調査に都合もよかろう。幾晩かの話し合いの末、熊楠は勝浦に赴くことになった。孫文と和歌山で旧交を温めた1901(明治34)年のことである。
熊野入りした熊楠は、まず勝浦港の近くで生活し、ほどなく那智の滝近くにある大阪屋に移る。明治35年に歯の治療で和歌山市に帰り、田辺・白浜で半年間過ごした以外は、明治37年10月まで大阪屋での生活を続けた。この間、藻類、キノコを手始めに、さまざまな隠花植物、さらには高等植物や昆虫、小動物など、熊野の生命の世界の採集に明け暮れる日々を送ることになったのであった。
その一方で熊楠は、長文の英文論文の執筆を続け、「日本の記録に見る食人の形跡」、「燕石考」を立て続けに完成させた。また、土宜法龍宛の書簡の中で、「小生の曼陀羅」と書く世界観のモデルを模索していたが、これは後に南方マンダラと呼ばれて熊楠の思想の中核的な部分と位置づけられるようになった。熊楠はこの中で、この世の森羅万象は互いに関連し合いながら存在していること、丹念に物事を観察していけばそれらの現象をすべて理解することが可能であることなどを説く。
那智時代の熊楠は、ロンドンで学問生活を続けられなかったことや、故郷和歌山に自分の居場所がないと感じたことを背景に、みずからの研究に没頭する毎日を送った。孤独な生活の中で精神が研ぎ澄まされ、死を意識することも多かったこの時期の熊楠の文章には、他の時期にはないような高い緊張感が漂っている。また、原生林も残る熊野の森林の中で長期間生活したことは、エコロジーという言葉で生態系の全体像をとらえようとする後年の思想につながっていくことになる。
【『世界を駆けた博物学者 南方熊楠』(南方熊楠顕彰会)より】
那智山
熊野三山の一つ那智権限を含む地域で、東牟婁郡那智勝浦町の一部。烏帽子山、光ヶ峰、妙法山を総称する那智山は、古くから霊山として崇敬され、山内には四十八滝と呼ばれる多くの滝があり、中でも一の滝は飛瀧権限として斎かれている。旧那智村は天満、浜ノ宮、川関、井関、市野々、橋ノ川、二河、湯川の八ヵ村を合併して1889(明治22)年に誕生、1934(昭和9)年、町制を布き、1955(昭和30)年に勝浦町と合併して那智勝浦町となった。
南方熊楠が那智山麓市野々の大阪屋に入ったのは1902(明治35)年1月12日のことで、そこを常宿として烏帽子山、一の滝、くらがり谷等へ思うまま足を延ばしている。終生の門弟となる小畔四郎とは、大阪屋に入って三日目に一の滝付近で植物調査中に話しかけられたのがはじめであった。1904(明治37)年10月まで熊野入りして二年余の収穫は、菌1065、変形菌48、藻852とする。この那智山植物調査の時期、水源ともいうべき原生林の伐採計画を耳にし、その保護に尽力した。
1977(昭和52)年2月、私は熊楠の跡をたずねて那智山を訪れた。実はその前年に熊楠の植物採集のお伴をしたという松本喜市氏にお目にかかった時、「宿舎の大阪屋から使いが来て行った」と聞いていたのでその大阪屋の位置を確かめに再度那智行きをしたのである。知人の案内で訪ねた場所には、なんと大阪屋の孫娘稲垣いなえ(1900(明治33)年9月19日生)さんが新しく建て替えた家に住んでおられた。聞くと大阪屋は宝暦四年から八代続いた旅宿だったが1926(大正15)年に廃業、熊楠の滞在した離れは1934(昭和8)年10月4日に焼失したという。稲垣さんの記憶では暑い時期で熊楠が浴衣がけに尻をはしょった姿や、採集標本を縁側に干し拡げていたことを覚えていたり、1919(大正8)年か1920(大正9年)頃、牧野富太郎が、「南方さんが泊まったというから一晩泊めてくれ」といって泊まったことがあったりしたことなどを話してくれた。ここでの熊楠の世話はもっぱら祖母の稲垣まつ(1909(明治42)年、82歳で没)さんがあたっていたという。牧野と南方は仲が良くなかったように伝えられているが、牧野もちゃんと宿舎まで覚えていたのである。同席していた地元の二河良英氏は「牧野さんは那智を見て“額”みたいなものだ。表きれいで裏がない」と感想を残して去ったと言葉をはさんだ。那智は一泊したぐらいの旅行者にはこの程度の感慨しか催さないのであろう。
【南方熊楠を知る事典より】
那智滝
南方熊楠が初めて南紀の名勝那智の滝を目にしたのは1901(明治34)年11月1日のことである。前年10月帰国、1年を故郷和歌山市で過ごしたが「父母共に草葉の陰に埋まり、親戚にも知らぬ人のみ多くなり、万事面目からぬゆえ」他郷に出ようと思い那智山を選んだという。日記によると、10月31日に勝浦に上陸、翌日にはまっすぐ那智の滝を訪れている。「那智山に行き滝見る。社へは参らず」とあるのを見ると、滝と、滝を覆う原生林の様子を見てすぐ引き返したのだろう。
【熊楠ワークス第6号より】
補陀洛山寺
日記によれば、熊楠が南海のこの補陀洛山寺を訪れたのは、1904(明治37)年9月28日、那智を引揚げ田辺に移住する数日前のことである。当日の日記には「九月二十八日中村公平氏紹介、寺にゆき南海補陀洛寺僧侶にあふ。此寺文武帝の勅願、宝永年間つなみにて記録多く失ふ」として、現存の位牌を二か所に分けて控えている。-(中略)-足かけ3年近く滞在した那智で、この補陀洛がこの日初めての訪問だったとは信じがたいことである。
【熊楠ワークス第33号より】
※世界遺産にも登録。南方に補陀洛浄土を目指し渡海する上人達の出発点。補陀洛渡海とは、生きながらにして小さい船に閉じ篭もり観音浄土を目指すというもの。
1902(明治35年1月15日の熊楠の日記には、「午後那智滝に之(ゆく)、越後長岡の小畔四郎にあふ。談話するに知人多くしれり。共に観音へ参り、堂前の烏石といふ珍物店主を訪」と記されています。
ランに興味があった小畔が、熊楠に出会ったのが那智の滝周辺。その後、ともに観音さん(観音堂)に行き、堂前の中川不老軒で店主の中川烏石(良悦)と話をします。
その後の熊楠と小畔の書簡のやりとりをみてみるとこれが面白い。
烏石は、ランを見つけると小畔に荷物で送る、と熊楠に言います。
熊楠は烏石のことを
右の人は尋常の商人に無之、御存知通り一と風ある人と見受け申候。然し歌よみ石集るばかりにて植木のことは知ぬやうに候。
御依頼のもやうにより今後も珍品集めくれべくと存候。
と評しています。
熊楠は、烏石の還暦祝いに何かやれ、と小畔に言ったようで、小畔はエミュの卵とブーメランを贈ろうとします。それを知った熊楠は烏石にはもったいないから、わしにくれ、とわがままを言います。
烏石氏になにか還暦の宴の興を扶くる為やれと申せしは、ほんの濠州の一寸した銀貨か郵券位ゐを指したことにて、実は田舎人は外国の事は分らず、随てアフリカの駝鳥も濠州のエミユーも分ることに非ず。然るに貴君大張り込でエミユーの卵に加へてブメラングとは、物も貰はぬ内からあまりに大早計と言はざるを不得。これを小生えくれたことなら、そこは古語にも重賞の下に勇士起り、香餌の下に懸魚有りで、一つかど和歌山中奔走して風蘭、石斛位は集め、又ムギラン、カヤラン等のちやらぽこ品は小生当那智山近辺かけまわり集むべきに候。故に未だ烏石え出荷せぬことなら、そいつらは何卒小生へ被下度候。
そして策を弄して自分のものとしてしまうのです。
エミュの卵は顕彰館に、ブーメランは記念館に所蔵されています。
※このときの熊楠と小畔の往復書簡は翻刻され刊行されています。
『南方熊楠小畔四郎往復書簡(一)[明治35年~大正五年]』
【地図】那智山・那智滝・補陀洛山寺