高原熊野神社 その由緒
中辺路街道沿いの高原にあるこの神社は、社伝によれば1402(応永9)年、熊野本宮から勧請された。社蔵の御正体(懸仏)には、1403(応永10)年卯月27日の勧請とあるようだが、いずれにしても15世紀の初頭のことで、王子を巡拝しつつの熊野詣の時期から遅れての勧請となる。そのため「高原王子」と呼ぶか呼ばないか、議論の分かれるところであるが、ここでとりあげる南方熊楠は「高原王子」説を採っている。神社の由来について『和歌山県神社録』(平成7年刊)では「江戸時代熊野権現という社名であったが、明治初年熊野神社と改め、明治六年四月村社」となったと記している。本殿は1961(昭和36)年4月、和歌山県指定の有形文化財となった。「森に櫲樟の大樹数株あり」(『西熊野の神々』)とも特記される大樹がある。
「たかはら」の地名
江戸時代中期の編纂とみられる『紀路歌枕』には「高原」について次のように注記している。「牟婁郡熊野山中なり。諸書名所に出ず。私考ここに載す」として
高原や峰より出る月影は千歳の松をてらすなりけり
因幡守通方 の和歌を紹介している。右の歌は後鳥羽上皇に従駕した時の御題「峰月照松」に応じて作られたもので、「従駕」に配慮して、編者が「私考(わたくしの考え)」で高原を紀州路の名所(歌枕)の一つとしてとくに取り出した、というのである。
『源平盛衰記』には熊野の参詣道を「山陰木影に懸りつつ、嶮しき所を過ぐるには、鹿瀬、蕪坂、重点、高原、滝尻と志し」と述べている。けわしい山坂の続く熊野路、その中に「たかはら」があったのである。
神社合祀と熊野神社
南方熊楠が初めて高原を通ったのは、那智山での植物調査を終わって陸路田辺に向かった1904(明治37)年10月10日のことで、大坂峠で採集しつつ下山、高原を通る頃はすっかり暗くなっていた。そのため熊野神社へは寄らずじまいだったにちがいない。
いわゆる「南方二書」と呼ばれる松村任三(植物学界の泰斗)に宛てた手紙にはこの神社のことを「高原の王子(『源平盛衰記』によれば、今日西蔵のラッサに上る如く、熊野を死の神の楽土とし一同上りしにて、この高原王子を下品下乗(生)の最初の階楽土とせしなり)に、八百歳斗りという大樟樹あり。此木を削りて棒とし、これを神体とす。この樟を伐り利を営まん為め合祀を逼ること甚だ切なりし」と報じている。
高原を「下品下生」とするのは、これも『源平盛衰記』に維盛の所作を「明かりぬれば嶮しき岩間をよじ登り、下品下生の鳥居の銘、御覧ずるこそ嬉しけれ」を踏まえたものである。中辺路町誌によれば、高原王子は高原熊野神社、「下品下生」の鳥居は高原堂の前にある「堂の庭」にあったとしている。(上巻P317-318)
高原の熊野神社にも合祀の嵐が吹いた。そのときこれを守ったのは「宮本」という男だった。田舎の人に似ず大豪傑なるその男は、今度の合祀は政府の意向ではなく県や郡の当局者の意向にちがいない、だったらここはいちばん大芝居をというわけで、官吏が依頼にくるたびに栗栖川の料理屋に誘って饗応し、日を過ごすうちに合祀は沙汰やみとなり高原王子は立派に残った(「南方二書」)という。ここで英雄的に紹介される宮本某は不詳であるが、この手紙の頃(1911(明治44)年8月)に先んずる1908(明治41)年11月には十丈王子の合祀請願が出され、ほどなく下川の春日神社へ合祀されるなど風雲急を告げている時期である。
ちなみに熊野神社の社殿は1961(昭和36)年、県の歴史的建造物として文化財の指定を受けている。
【熊楠ワークス31号(南方熊楠ゆかりの地を訪ねる29 熊野神社(高原)中瀬喜陽)に追記】
熊楠はまたこうも語っています。
一方小生は先年本県神社合祀に反対を唱えしとき、二川村(坂泰官林のある村)尤も小生の主張を翼賛頑守し、三、四年つづきて郡吏出張説諭するも誰も役場へ聞きに来らず、役場員(大江氏)等も逃げてしまひ村長一人の外誰も来らず。費用倒れになる故、阿房らしくて郡役所吏も出張をいやがり、彼是する内合祀も立消えになり、・・・故に今も小生に対しては甚だ好感を抱き居れり。
【昭和4年10月7日小畔四郎宛書簡 『熊楠研究8』P261】
こちらでは村ぐるみで反対したと記しています。大江氏は妹尾官林の際、手配してくれた大江喜一郎氏でしょうか。彼は二川村の収入役も務めています。いずれにせよ旧中辺路町を構成した村の内、近野村は近野神社に、栗栖川村は滝尻王子宮十郷神社にことごとく合祀していますが、二川村には高原熊野神社、富源神社、住吉神社などが残っています。
※近野神社
1907(明治40)年4月、宮ノ上にあった小社金刀比羅神社が幣帛料供進社に指定され、翌年11月28日に一村一社の神社合祀令で村内の王子神社(大阪本王子・近露王子・比曽原王子・野中の継桜王子・中ノ川王子・小広王子・岩上王子・湯川王子)・春日神社・丹生神社・八藩神社・稲荷神社・下永井八幡神社・大畑八幡神社・同湯川の王子神社・地主神社(近露、野中、道湯川の旧3村の各地に祀られていた地主神等の小社を合祀)が合祀された。 1909(明治42)年7月、境内地が狭隘のため現在地(一里石)を整地し遷宮。 社名を近野神社と改称され村社となった。
※滝尻王子宮十郷神社
1908(明治41)年11月の一村一社の神社合祀令によって、村内の神社(栗栖川の厳島神社・杵荒神社・石船の八柱神社・小皆の竃神社・水上の岩戸別神社・内井川の若宮神社・熊野川の若宮神社・真砂の八幡神社2社・北郡の日吉神社・西谷の大山祇神社)11社を合祀し、社名を十郷神社と改めた。 1946(昭和21)年6月、社名を瀧尻王子宮十郷神社と改称した。 同9月、合祀していた11社が分離し旧地に復社した。
南方二書での言及
松村、三好両教授、中辺路を御通行の際は、まだ多少の樹林ありしなり。しかるに、今回の神社合址にて熊野街道の樹林は絶滅せるなり。そのうち高原の王子(『源平盛衰記』によれば、今日チベットのラッサに上るごとく、熊野を死の神の楽土とし一同上りしにて、この高原王子を下品下乗の最初階楽土とせしなり)に、八百歳ばかりという大樟樹あり。この木を削りて棒とし、これを神体とす。この樟を伐り利を営まんため合祀を逼ることはなはだ切なりしに、田舎人にしては大豪傑なる宮本という男、政府の力もて神社を合祀せんとならば、よろしく警察吏を派して、片はしから処分すること流行病を扱うごとくなるべし。しかるに毎度毎度来たりて、あるいは慰喩し、あるいは脅迫して、合祀請願書を作り、むりに調印を勧むること心得られず、これ必竟政府の意にも内相の意にもあらざるべく、全く卑陋なる県郡当局吏の私曲なるべし、と気づき、基本金五千金を一人して出すべしと諾す。故に宮を潰すことも木を伐ることも成らず。さて五千金の催促に来るごとに、近傍栗栖川の料理屋へつれゆき飲食遊宴せしむ。官吏酒に酔い遊ぶうちに日程尽き、自分の旅費日当足らずなり閉口して去る。かくのごとくして永延くうち、県当局五千円の基本金を中止し、神職に俸給を給すべしという条件のみ残りしゆえ、今に神職に何にもやらずに高原王子は立派に残る。
高原熊野神社