南方熊楠賞選考委員会(人文の部)
委員長 小松 和彦
第34回南方熊楠賞(人文の部)は、慎重に審議した結果、南方熊楠賞の受賞者に松岡悦子氏を選考した。
第34回南方熊楠賞選考委員会は、その受賞者として、日本における〈妊娠・出産〉に関して、これまでの民俗学的研究を継承しつつ、家族やジェンダーの問題として取り上げ、さらに医療化にはらむ問題を、国際的な比較を通じて論じてきた、松岡悦子氏を選考した。
松岡氏は、1954年大阪府に生まれ、大阪大学で文化人類学を学び、当初は占いや宗教による病気治しの研究に取り組んだが、その後、自身の出産経験を契機に、女性たちが綿々と受け継いできた、産むことや子を取りあげることをめぐる経験を主題化し、以来、民俗学・文化人類学の立場から一貫して〈妊娠・出産〉にテーマを絞って研究を進めてきた。
初期の研究業績である『出産の文化人類学』(1985)では、出産が多くの文化で儀礼として行われてきたこと、また産婆が儀礼をつかさどる役割を果たしてきたことを、日本での民俗的慣行や、海外のいわゆる伝統的社会の民族誌から渉猟し、さらに、近代医療制度の普及した現代の病院での分娩についても参与観察や実態調査を実施し、こうして、多様な現場を総合的に比較することによって、「産みの思想」を明らかにしようと努めた。
ここで言う「産みの思想」とは、人類が脈々とつないできた命の連携、すなわち産み育てることをめぐる伝承、文化、女性の経験をまとめて言語化することを指す。
このように、最初の単著においてすでに、伝統的事例から現代的変容までを取り込んだ、時空の広い視座が獲得されていた。これは、鈴木七美の『出産の歴史人類学』(1997)や、安井眞奈美の編著による『産む・育てる・伝える―昔のお産・異文化のお産に学ぶ』(2009)などのその後の研究の先駆となった。
次の画期をなすのは、小浜正子との共編著である『世界の出産―儀礼から先端医療まで』(2011)である。バングラデシュ、インドネシア、ドイツ、ハンガリーなど世界各地の病院での出産現場を現認した経験は、近代医療に取り込まれた妊娠・出産を問う契機となり、近代医療というグローバルな基準が支配する現場であっても、当該社会の文化的価値が入り込むことを明らかにしている。
単著としては、その後『妊娠と出産の人類学―リプロダクションを問いなおす』(2014)がまとめられた。本書では、子どもを産むことに関わるすべての局面において、当事者の意思が尊重され、自分らしく生きられるべきことを説いている。このほかにも論文はきわめて多く、加えて看護学や助産学、社会学など多様な分野の研究誌に掲載されていることは、松岡氏の学術的インパクトの大きさを示している。
現在の日本社会における最大の課題とも言える、〈妊娠・出産〉に対して、当事者に寄り添いながら、個人のライフイベントが、祝い事として社会的意味を持つようにするには、どうしたら良いのだろうか。松岡氏の業績はその答えを見出す上で必須のものとなっている。
以上のように、松岡氏の研究は、民俗学の現代的展開として、南方熊楠賞にふさわしいと判断し、同氏を第34回南方熊楠賞受賞者に選考した。