2015(平成27)年10月に南方熊楠ゆかりの場所13ヶ所が「南方曼陀羅の風景地」として国の名勝に指定されました。
南方曼陀羅の風景地
田 辺 市 : 神島、鬪雞神社、須佐神社、伊作田稲荷神社、奇絶峡、龍神山、天神崎、継桜王子、高原熊野神社
上富田町:八上神社、田中神社
白 浜 町 : 金刀比羅神社
串 本 町 : 九龍島
南方曼陀羅の風景地13ヶ所は、熊楠が神社合祀反対運動中に記した『南方二書』、「神社合祀に関する意見」で触れた場所でもあります。
南方熊楠(1867~1941)は、和歌山県を中心として、近代日本の環境保護運動に先駆的な役割を果たした博物学者・民俗学者であり、特に明治末期から大正期にかけて、一村一社の方針に基づき推し進められた神社合祀政策に対する反対運動に大きな功績を残したことで著名である。熊楠の著作・記録・書簡等からは、多分野にわたる博識がうかがえるとともに、神社合祀反対及び環境保護の根拠となった独特の世界観・風景観が読み取れる。
1884(明治17)年、熊楠は東京帝国大学予備門を中退した後、1887(明治20)年に渡米し、さらに英国に渡って大英博物館で資料整理に従事した。約8年間の英国滞在中に、博物学・植物学・民俗学など多分野に及ぶ論考を総合学術雑誌である『ネイチャー』に発表し続けた。帰国後は故郷の和歌山県の中でも熊野地方に近い田辺に居を構え、植物の観察・採集・標本作成に専心するとともに、特に粘菌類の研究に没頭した。その過程で熊楠は生物間の多種多様な相互関係を表す「エコロギー」(生態学)を重視し、古跡・宗教・民俗・景色等の要素を含め、人間の精神的・物理的な関わりをも視野に入れた自然の機構総体の保護の重要性を主張した。1912(明治45)年2月9日に植物病理学者の白井光太郎に送った『神社合祀に関する意見』において、熊楠は「わが国特有の天然風景はわが国の曼陀羅ならん」と述べ、「特有の天然風景」は大日如来を中心とする「真言曼陀羅」のごとく自然・人文の総体が持つ有機的な体系の重要な部分であることを指摘した。
1911(明治44)年に柳田國男が印刷配布した『南方二書』、1912(明治45)年の『神社合祀に関する意見』において、それぞれ取り上げた神社境内及び景勝地の総数は37箇所に及ぶ。そのうちの25箇所は、熊楠を先頭とする村人たちの努力により合祀を免れた神社又は合祀後に復社した神社の境内、粘菌類等の植物観察に好適の場所として保護を訴えた景勝地などであり、独特の地形・地質、植生から成る優秀な風致を今に伝える。