南方熊楠賞について
南方熊楠翁は1867年5月18日(慶応3年4月15日)和歌山市に生まれ、幼時より天才の名をほしいままにし、東京大学予備門(現東京大学)に入学、2年後退学渡航、米国各地を彷徨、高等植物から菌類・地衣類まで、さまざまな植物を採集、後英国に渡り大英博物館に迎えられ、「ネイチャー」「ノーツ・アンド・クエリーズ」に多くの論考を発表、その学識の深さは古今東西にわたり碩学の名をほしいままにする。
1900(明治33)年帰国、1904(明治37)年より田辺に居を定め、雑誌・新聞への投稿、変形菌(粘菌)・菌類を主とした植物の研究に没頭するとともに、エコロギー(エコロジー=生態学)という言葉を使い、明治政府が推進した神社合祀に反対するなど自然保護に尽力した。
民俗学分野では、日本民俗学の父といわれた柳田國男氏をして「日本人の可能性の極限」と言わしめ、その学殖の豊かさから、様々な質問を受け、回答したものが往復書簡集として発行されている。
植物学分野では、新種の変形菌を多数発見し、自宅の柿の木で発見した新属新種の変形菌(粘菌)は、ミナカタの名を冠せられた。また、高等植物、コケ類、地衣類、藻類、菌類、変形菌類合わせて3万点以上の標本を残した。
1929(昭和4)年、昭和天皇を神島に迎え進講、1941(昭和16)年永眠した。
田辺市と南方熊楠邸保存顕彰会(現:南方熊楠顕彰会)では、翁没後50周年記念事業を計画、種々様々な顕彰事業を実施してきた。
1990(平成2)年10月20日、南方熊楠翁没後50周年記念式典を開催し、市民の誇りとして翁の偉業を称え「南方熊楠賞」を制定した。
この賞は、国内外を問わず翁の研究対象であった民俗学的分野、博物学的分野の研究に顕著な業績のあった研究者に贈り、また特別賞として翁の研究に顕著な業績のあった研究者に、それぞれ賞状及びトロフィー(故 建畠覚造氏制作)並びに副賞(本賞 100万円、特別賞 50万円)を贈るもので、表彰は、例年、年一研究者とし、人文部門、自然科学部門から交互に選考をするものである。